特性を感じるエピソード(8)(子育て〜幼児期)
前回は、子どもが生まれてすぐの頃の夫のイクメンぶりとその後の変化について書きました。
私は「夫はイクメン」という最初の印象に囚われたまま「おかしいなぁ」とモヤモヤする期間が続いていました。今日は、その頃のことを振り返ります。
すぐ目の前にいるのに、私たちが見えてない?
子どもが生まれて少し大きくなると、それまでは気づかなかった夫の不思議な特性が現れてきました。
それは、家族3人で同じ空間にいるのに、夫だけが別世界にいるような態度を取るということです。
最初に「なんで?」と思ったのは、子どもの世話が、抱っこ、授乳、おしめ変え、寝かしつけくらいだった乳児期を脱し、親が遊び相手をしてあげることが必要になった頃。
休みの日に夫がソファに寝そべって本を読んだりスマホを眺めているすぐ前で、私は子どもの相手をしているのですが、夫はそこに全く関与してこないのです。
夫が大人の発達障害であるという可能性に気づいていなかった当時の私は、夫が子どもの相手をするのが面倒だから、私たちを無視するような態度を取っているのだと思っていました。
面倒だと思いながらもそばにいるのは、夫なりに「休日に妻をワンオペ状態にして出ていくのは気が引ける」という感覚があるのだろう、とも思っていました。
だから、夫の目の前で延々と子どもの遊び相手をしながら、「さすがにいつかは、子どもの相手を代わってくれるだろう」と期待していたのです。
だけど、いくら待っても一緒に遊んでくれることはないし、例えば目の前で「わぁ◯◯ちゃん、そんなことできるようになったの! スゴイねぇ!」と言ったり、私と子どもが何かに大笑いするようなことがあっても、夫が「何があったの?」と聞いてくることはありませんでした。
今思えば、夫は「妻が子どもの相手をしている=自分は必要ない」という感覚で完全に読書やスマホに集中していて、目の前にいる私と子どものことは「本当に、単純に、気にならなかった」のだと思います。私がいくら長時間子どもの相手をし、「疲れたオーラ」を発していても、夫がそれをキャッチする状態にはなかったのです。
はっきりお願いすればやってくれるけど

夫が発達障害であろうとなかろうと、こういうときは相手が察してくれるのを待つのではなく「子どもの相手をして」とはっきり要求すべき。それは分かってますよ。
実際「私は疲れたから、子どもと遊んで」と要求することもあったし、そうすれば少しは応じてくれました。でも、それはその時だけ。「毎回言わなきゃやってくれないのか」とそれはそれでストレスが溜まるんです。
それに、子どもの遊び相手をする・しないの問題以上に、「どうして目の前にいるのに、いないみたいな態度を取るの?」というのがとても不可解で寂しかったんですよね。
私の中の家族のイメージは、同じ部屋にいれば、それぞれが自分の好きなことをしていてもお互いの様子を感じていて、何か驚くことや面白いことがあれば顔を見合わせて会話が始まる…というもの。
小さな子どもがいれば、父親も母親も一緒に子どもに話しかけ、「かわいいね」と笑い合う…そんな幸せな家族像を思い描いていました。
でも、そういう光景が私たちは作れなかった。
夫にしてみたら、妻が子どもの相手をしているなら自分がする必要はない。妻ができないならやるけど、という感覚だったのだと思います。
「相手ができないときには自分がやる」、それはそれでとても必要なことなんだけど、それとは別の「夫婦で一緒に楽しみながら、たまには一緒に悩みながら、子育てに取り組んでいく」というのができなくて、なんだかとても寂しかったのです。

ふたりのときは気づかなかった「話しかけられていることに気づかない」という特性
子どもが一緒に食事をできるようになると、同じテーブルについているのに夫だけ別の世界にいる、と感じるようになりました。
私が子どもの食事を手伝っていても手伝おうとすることはないし、わたしと子どもは3人で会話しているつもりでも、夫が会話に入ってくることはありませんでした。
子どもが生まれるまでは夫のこういう特性に気づきませんでした。ふたりで生活していたときは、一方がしゃべりだせば、それは当然もうひとりに対して話しかけているのだということがわかりやすかったからだと思います。夫が自分の世界に入っていても、私が何か話し始めればそれを無視するわけにはいかず、会話が始まっていたのでしょう。
子どもが生まれて3人になると、夫ははっきり自分の名前が呼ばれない限り、自分に話しかけられているとは思いません。
子どもは「パパ」と呼びかけることなく急に話しかけることがあります。そういうときは、99%反応なしです。
すぐ目の前からパパの方を向いて呼びかけているのに反応がないので、子どもは不思議そうだったり、「ねぇ!」と怒ったりします。それで、「パパは聞いてなかったみたいだよ。ちゃんとパパって呼んでから話しかけてごらん」と私が助け舟を出すことになるのです。
目の前で牛乳をこぼしても微動だにせず
同じテーブルで食事をしているのに夫だけ別世界、というのはとてもストレスでした。
私にとって家族で食事というのは、そこにいるみんなが共通の話題に参加しながらするもの、というイメージがあったので、それとのギャップに苦しみました。
夫は食べている途中こそ本やスマホは置いていましたが、私と子どもの会話には参加せずに黙って食べ、一人食べ終わるやいなや、その場で本やスマホに没頭します。
それならいっそ、食べ終わったらさっさと別の部屋に行ってほしいと思います。でも、夫は単に移動する必要を感じないからしない、というそれだけなのでしょう。
今でも「あんまりだ!」と思うのは、子どもが自分で牛乳をコップに入れようとして牛乳パックを倒してしまったときのこと。
テーブルの下にまで牛乳が滴り落ちる状態で、私は慌ててタオルを持ってきて牛乳が広がっていくのを阻止したり、牛乳まみれになった子どもの服を脱がせたりしているのですが、そんな状況でも夫は本に目を落としたまま微動だにしないのです。
うらやましいほどの集中力だな(笑)って今なら笑えますけど、当時はさすがにムカついて仕方なかったです。
私たちに興味がないの?
目の前で起きていることも目に入らない、話しかけられていても気づかないというのは、ADHDの不注意傾向からくるものかもしれないし、ASDのか集中の傾向からくるものかもしれません。
だから仕方ないんだとは思うのですが、それにしても、「夫、私たちに興味なさすぎじゃない?」と思ってしまいます。
ASDのパートナーを持つ人へのアドバイスなどで「ASDのパートナーは、あなたへの愛情がないわけではない。定型発達の人と違う仕方であなたを愛しているんです」みたいなことが書いてあったりするけれど、こういう状態で、どこからどう愛情の存在を確認することができるんだろう。もし愛情があるのだとして、私が欲している種類の愛情ではないのかもしれないな、なんてことを考えるようになりました。
※夫は、私から見て発達障害の特性に当てはまるものを多く持っているというだけで、医師の診断を受けたわけではありません。義母は特に疑問を持たずに育ててきたようですし、普通に就職して働いているので、検査しても診断は下りないかもしれません。
私は、今のところ夫が「発達障害かどうか」はあまり気にしていません。ただ、発達障害のことを知ってから、それに特性に近い個性や性質を持っている夫のことを以前よりは理解できるようになったと感じています。そんな私の視点で過去を振り返ったり、今現在の別居という形での夫婦のあり方の模索の様子をお伝えすることが、同じような悩みを抱いている方のお役に立てればと考えています。