ASD的な夫の態度について考えていたら「愛」って何かわからなくなった
最近、ASD、AS、アスペルガーなどと呼ばれる障害を持つ人のパートナー向けの本が増えていると感じます。
そういう本によく書いてあるのが、「あなたが望むような愛情表現をしなくても、あなたに関心がないような態度をとったとしても、彼はあなたを愛していないわけではない」といったことです。
それって本当?

相手の気持ちを想像するのが苦手で「普通、こういうときはこう言うよね?」という一般的なお約束にも無頓着な傾向のあるASDの人なら、愛する人への接し方も変わったものになる、という話は理解できます。
でも、本を書く人が読者に向かって、なんで「あなたのパートナーはあなたは愛している」なんて断言できるんだろう。そんなの、カップルによるでしょ?
…と今は思うんですけど、以前の私は本に書いてあることを真に受けすぎて、「そうか、夫は私のことを愛しているはずなんだ。そう思えないのは発達障害のせいなんだ」と考えていました。
(例えばこれらの本は「アスペルガーのパートナーには愛情がある」という前提で書かれていると感じます)
ASDのパートナーがあなたを愛していない可能性もある
でも、どう考えても、夫が私を愛していると感じられる証拠のようなものは見つけられず、私の頭の中は「おかしいな、愛されてるはずなのに、おかしいな」と混乱していました。
今は、私が「愛情」だと思うような感情を、夫は持っていないのだ、と考えるようになりました。
誰かが夫に「奥さんのこと愛してる?」と聞けば、夫は「愛してますよ」と答えるかもしれません。
でも、「愛してるって、具体的にはどういう気持ち?」と聞かれたら、多分答えられないんじゃないかな。
恋愛して結婚した相手なんだから、妻のことを愛しているのは当然だ、くらいのロジックなんじゃないかな、と思うんです。
「愛している」という結論だけあって、その根拠となる気持ちは特にない。気持ちがないのだから、愛ある行動も生まれようがない。
今の夫にとって私は、ほとんど関心がないというか、以前に書いたように怖かったり面倒だったりする存在。それなのに「愛してる」という結論だけは変わらない。とっても不可解だけど、そういうことなんじゃないかと思います。
(夫の愛情がないという可能性に気付かされた本はこちら)
夫は愛していても、私は愛されてない
この推測が当たっているとしたら、私の基準では、夫は私を愛してなんかいない。でも、夫の基準では愛しているということになるわけです。
多くの本に書いてある「あなたが望むような愛情表現をしなくても、あなたに無関心がないような態度をとったとしても、彼はあなたを愛していないわけではない」は、彼目線で見れば真実なのでしょう。
でもそれって、私にとっては愛されていることにならないんだよ。それじゃ、意味ないんだよ、と思います。
だったらもう、別れてもいいんじゃないかと考えたりもするのですが、この状態で私が夫に別れを突きつけたら、彼は「愛しているのに捨てられたと」感じるのかな…。
それはなんだか、罪悪感…。
でも、そんな愛情とも言えないような愛情を盾に、なんで私が責められなきゃいけないんだ!
…妄想の中でどうどう巡りです。

夫の愛情や特性を受け入れていないという罪悪感
カサンドラにとって、罪悪感というのはとても厄介なものです。
彼は私は愛してくれているのに、私はそれを感じ取れない。
彼の困った行動は発達障害の特性ゆえなのに、私はそれにイライラしてしまう。
そんな風に考えて、どんどん深みにはまっていってしまうのです。
発達障害の相手とそうではない私とでは生きている世界が全く違うのに、私は一生懸命に相手の事情に配慮しようとし、それがなかなか完璧にはできなくて自己嫌悪。
一方、相手は私の立場で考えることなんてない。そういう特性だから仕方ない。
とっても不公平に感じます。
だったらもう、相手の立場に立つ必要なんてない。私にとって、そう割り切ることは、相手への愛情を捨てること。自分が冷酷な人間になるようでとても苦しい。
でも相手にとっては、私が私の思う愛情を保っていようがいまいが、夫婦であるという状況が変わらない限りは特に変わりはないのかな。
いったい愛情ってなんだろう。グルグルと考え続けてしまいます。