大人の発達障害らしき夫との別居を考えたときに生まれる罪悪感

夫がいない日常ってラク!という気付きがあり、
夫自身がよく分かってないんじゃないかと思われる妻や子供への気持ちが、別居してみればハッキリするんじゃないかという思いつきもあって、
いよいよ「別居したいな〜」と考えるようになりました。

でも、なんとなく罪悪感があって、なかなかスッパリと「別居に向けて動こう!」とは思えませんでした。

その「罪悪感」とは何か。大きく分けると3つありました。

夫を見捨てるのか、という罪悪感

別居すれば私はラクになる。でも夫はどうだろう?

一緒に暮らしていても、家では寝てるか本を読んでいるかでほとんど家事をしない。
私が手を出さない夫の個室はほとんど足の踏み場がない。夫を一人にしたら、家中がこの状態になることが想像できる。

食事はなんとかするだろうけど、皿洗いとかちゃんとするかな。ゴミ出し忘れそうだな。……衛生面が心配だ。

仮にも夫婦、パートナーである私は、こんな心配のある人を放って自分だけラクになっていいんだろうか。

私の迷いには、純粋に「夫が心配だな、悪いな」という気持ちだけじゃなくて、世間体みたいなものもかなりありました。夫がいつもヨレヨレの服を着て、いかにも不健康そうな顔をしていたら、「奥さんは何をしてるんだろう」って思われるだろうな〜みたいなね。

まわりの人が「夫さん、寂しそう」なんて思うんだろうな、というのも気が重かったです。夫が実際に寂しいのかどうか、別居でそこがハッキリすればいいと思っているのだけれど、「冷たい嫁」みたいに思われるのはやっぱり嫌なんですよね…。

子どもが寂しがるかも、という罪悪感

子どもはパパのことが好きです。

私がパパとの関係に悩んでいることも、まだ分かっていないと思います。

パパはいつもゴロゴロしていて忘れっぽく、ママはそれに比べてきちんとしている、という認識はあるみたいだけど、だからといって別々に暮らすことになるなんて、これっぽっちも考えていないでしょう。

別居するって言ったら、びっくりするだろうな。

はっきり「嫌だ」って言いそうだだな。


どうやって納得してもらおうか。
…と考えるうちに、嫌がる子どもを無理やり納得させてまで別居を強行するということへの罪悪感も湧いてくるのでした。

他の解決方法を探す努力を諦めるのか、という罪悪感

そして、一番大きな迷いの元は、「別居の前に、もっとできることがあるのでは?」という思いでした。

世間ではよく言いますよね。

「よく話し合って分かり合おう」

「お互いの妥協点を見出そう」

夫が大人の発達障害ではないかと考えるようになってから、話し合うとか、分かり合うとか、そういうのがそもそも難しいんだということを理解するようにはなってきているんだけど、それでも、諦めきれていない自分がいるんです。

もっと上手にやれば、話し合うこともできるんじゃないか

私の思いをわかってもらえたら、夫も少しは変わるんじゃないか

彼の本心を掴めたら、上手くやる方法が分かるんじゃないか

もっと一緒にいて辛くない方法が見つかる努力を、もっとすべきなんじゃないか

どうしても、そういう考えを頭から追い払えなくて、「別居=分かり合うことを諦めること」という風に考えてしまう。

諦めるのは良くない、できるだけ努力すべきだ、と考えてしまう私の真面目さが、ラクな道に流れるのを阻止しようとするのです。

※夫は、私から見て発達障害の特性に当てはまるものを多く持っているというだけで、医師の診断を受けたわけではありません。義母は特に疑問を持たずに育ててきたようですし、普通に就職して働いているので、検査しても診断は下りないかもしれません。

私は、今のところ夫が「発達障害かどうか」はあまり気にしていません。ただ、発達障害のことを知ってから、それに特性に近い個性や性質を持っている夫のことを以前よりは理解できるようになったと感じています。そんな私の視点で過去を振り返ったり、今現在の別居という形での夫婦のあり方の模索の様子をお伝えすることが、同じような悩みを抱いている方のお役に立てればと考えています。

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